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佐倉義民伝 車人形の見どころ! 宗吾と甚兵衛が、二人抱きあうシーンは3回出てくるが、どれも違う心情。 [解説]

一見、同じようなしぐさをすると、同じ心情のように思われがちですが、劇で繰り返し同じことをする場合は、それぞれ意味あいが違います。一度目は、残念だ~の後の「ふたりたがいに手をとりあい、無念の涙はらはらはら」。この時は、宗吾は、上から。甚兵衛は下から。ここで、名主と、一般人(渡し守り)の地位の違いを意識している。二度目は、宗吾が「一揆を励ます種となろう」と言うと、その言葉に励まされた甚兵衛が「百姓は奮い立ち、一揆は必ず勝ちまする!」と応え、「よく言ってくれたと・・「たがいにひしと抱きあい」。この二度目の場面では、ほぼ同じ高さで抱きあう・・対等な関係。三度目は、錠がかかっている渡しの舟の鎖を甚兵衛が切りおとし、百姓の味方となって命まで捨てようとする宗吾を前に、自分も命の危険を顧みず舟を出すと決意した甚兵衛に「かたじけない」・・と甚兵衛にすがりつき「たがいにひしと手をとりあい、しばし涙にくれいたる」・・この三度目の場面では、名主の宗吾は下から。甚兵衛は上から抱きあう。立場が逆転するのです。立場に関係なく信頼し合える関係を表現しています。話をしているうちに、覚悟を決めて、決意し、一揆のために命をかける二人の男達。今でこそ、男同士ハグするのも珍しくない時代になったが、これは、1965年に書かれた台本です。段々と心の距離が近くなったことを、体の距離で三段階に表現しています。


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「佐倉義民伝」「さんしょう太夫」「唐人・おきち」車人形付き3作品は、しいたげられた者達の立場から時代の不条理を描いて語り継がれてきた社会問題提起歴史物語 [解説]

日米地位協定見直しのニュース・・・実在の人物、唐人・おきちの犠牲のもとに、不平等条約歴史の発端とも言える日米間の不平等条約が歴史上最初に結ばれたのが、安政の不平等条約・・以来・・日米安保条約・・軍事基地問題・・日米地位協定・・「唐人・おきち」の物語を通して、時代の不条理を訴えてきたのです。(1973年作曲)

「新曲さんしょう太夫」は、日本に人買い・奴隷制があったと思われる歴史と奴隷解放・・主人公・つしおおは、偉くならず、最後まで奴隷としてこの物語は書かれている。昔は偉人伝としてでないと、物語として残らなかった背景があることを考慮。自らの力で困難に立ち向かい自由を勝ち取っていく主人公・つしおおの、凛々しい姿に励まされる。親子の再会の場面では親子の情愛が描かれている。そして、新潟を舞台に・・人さらい・・今なお解決していない拉致問題とリンクする。(1967年作曲)

「佐倉義民伝」は、百姓一揆の物語。年貢(増税)に苦しむ百姓に味方した名主・宗吾の存在は、一揆を励ます種となる。日本各地に宗吾を祀る神社や祠があり、地方の一揆を実行する参考にもされました。歴史的に、百姓一揆の物語をそのまま伝えるのはご法度だった時代、説教浄瑠璃のもとの題は、「浅倉草紙楓短冊」(あさくらぞうし・かえでのたんざく)、話の筋を関西のものにしたり、名前を変えたり一揆の相手が悪代官だったりして伝えられました。これを、史実に近づける必要があり、また、農民一揆の物語である以上、重点を名主・宗吾より、農民・甚兵衛に重きをおくべきという考えで物語を改定されました。農民のたたかいの犠牲になる決心をした人間同士の結びつきの美しさを描いています。(1965年作曲)


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唐人おきち  [解説]



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幕末の黒船来航から、徳川300年の鎖国を打ち破り、開国へと下田が国際交渉の舞台となった時代に、アメリカの総領事、タウンゼント・ハリスが下田の玉泉寺を領事館として、江戸幕府と交渉することになる。幕臣の伊佐新次郎は、下田の船大工の娘で、その時芸者をしていたおきちを斡旋、玉泉寺に入ってハリスの世話をすることを命じる。ハリスと幕府との間で、いわゆる「安政の条約」が結ばれる。その後おきちは、日本で初めて異人に身をまかせた女として、極端な軽蔑の目で見られ、「唐人おきち」と呼ばれて、あらゆる侮辱を受け、髪結いや芸者をして諸国を流れ歩いたあげく、最後には故郷下田に帰り、こじきになっていたが、明治23年下田の川に身を投げた。歴史の犠牲者である。おきちを犠牲にして結ばれた安政の不平等条約は、それから長く日本の社会を苦しめた。東京の真ん中に日本人の入れない「租界」がある。今も社会問題となっている、軍事基地と地位協定の事です。昭和48年に作られたこの作品は、差別問題含め、今なお、社会に問題提起を投げかけている。下田へ行くと、おきちが、実際に生きていた人物であることを実感させられ、非常な差別の歴史に心痛ましくなる。多くの芝居で、おきちのことが演じられているが、こじきだからと、みすぼらしく汚いイメージで描かれていることが多い。高倉テル、平井澄子の作ったこの車人形作品では、あえて、汚いイメージは強調せず、あけがらすのおきちと呼ばれた綺麗なイメージを残したひとりの女性として、人間らしいおきちを描いている。これには、菩提寺である、宝福寺の住職と奥様も感激していただき、宝福寺には、有名芸能人のパネルなどと共に、私達が公演したときのチラシと、雨宮さんが寄贈した、車人形のおきちの写真が今も飾られています。


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新曲 まんざい 冒頭の歌と解説補足 [解説]

♪あらたまの 年たちかえる あしたより 人も若やぎ 木の芽もめぐみ よろずよくよく 栄えけるは まことにめでとうそうらいける。 かどには門松 せどにはせど松 町もにぎわい 品々豊かに ずっしり ずっしり 市(いち)も栄えて まことにめでとうそうらいける ♪  地唄のまんざいの特徴的な部分を復元したものです。 「まんざい」とは、長生きして栄えるという意味です。十世紀頃、陰陽道の暦が伝わり、農民、その他の勤労者の間でも、長生きと豊作を祈る正月の行事として、広く行われていた。鎌倉時代には、音楽専門のこじき僧、声聞師(しょうもんし)、千秋万歳法師(せんずまんざい・ほっし)も生まれて、だんだん職業化していった。室町時代には、専門の「かどずけ」のまんざいを生み、だいたいふたり立ちが多く、ひとりは、えぼし・大黒頭巾・たっつけ袴 つまり、今の「三河まんざい」の太夫と才蔵の姿に近づき、太夫は扇を、才蔵が鼓をもつのが古くからのしきたりです。いま、寄席やテレビでやっている漫才もこの形式と名前をうけついでいる。農民に対する幕府と領主の極端な圧迫が、多数の農民に、農閑期の出稼ぎを必要にさせ、それが「まんざい」の形となった。地唄のまんざいは、江戸時代の新年の京の町の市のもようを描いた、珍しい風物詩です。新曲まんざいの構成は、正、反、合の3段階の構成になっている。現状~矛盾~新しい喜びと幸福感を、狂言の形式を取り入れて、大胆に誇張されて表現されている。芝居というより、踊りの要素が多い演目です。少ない小道具だけで、すべてを表現しなければならない車人形としては、一番最初に覚える演目であり、曲も短いのですが、他の演目とは質が違い、上手く演じるのは、なかなか難しい。 また、感情表現は、演じる人の個性が出ることと、たがいに助け合い思いやる内容から、結婚するご両人の披露宴の出し物として、人間振りの劇として演じられることもあります。                    


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新曲 まんざい 解説 (平井澄子 うたとかたりCD付録解説より) [解説]

地唄の古い曲に「まんざい」という曲があります。正月になると都会へやってくる万才を扱ったものです。万才の人たちは、本来農業をしているのですが、正月近くになると旅の姿をととのえ、別の村から来る鼓打ちで道化役の才蔵と組んで都などで人々の家を訪れては祝福の言葉を残して行くものです。その歴史は古く、鎌倉・室町の千寿万才から寄席の漫才にまで及んでいます。愛知県の三河万才は有名ですが、京都あたりでは大和万才でしょうか。タカクラ・テルさんの作品では京都の郊外山科の出身ということになっています。地唄の「まんざい」には「やしょめ やしょめ」という歌いだしで、京の町で売り買いされる品物をたくさん並べた、早口ことば風の歌詞が並んでいる所があります。これは京都・大阪で万才の口から流行したもののようですが、室町時代に本願寺の蓮如上人が子守唄として作られたのが元だともいいます。タカクラ・テルさんの作品では、この「まんざい」と「やしょめ」を二人登場人物にしてあります。諸家をめぐり歩いている山科の「まんざい」と八瀬の薪売りである「やしょめ」が、商いの盛んな京の町でも、思うものも買えず、困っているのを、結局助けあって、もっとよりよいものを目指すというすじで、古い地唄「まんざい」のことばを現代の大衆にわかりやすいようにしたものです。内容も現代の働く若者たちに共感を得るようにしたものです。この曲は、私の関係している労音などの団体で、若い人たちが自分から演じるためにも好適な、やさしいもので、現にしばしば演じられています。これは聞いても演じても楽しい邦楽で、労音の人たちも同じ意見のようです。地唄「まんざい」は、「鳥辺山」などと同じく、藤岡東圃氏夫人に教えていただいたもので、この曲の最初の部分をはじめ、いくつかの部分に原曲を使っています。私自身としては、古曲の「まんざい」に、新しい会話をつけた、地唄の編曲ものだというふうに考えています。  平井澄子   ・あらたまの~まことにめでとうそうらいけるー地唄の原曲にもとずいて作られた万才の祝い言葉  ・ほほ。これわえー万才のはやしことば。   ・やしょめー本来は万才の演目のひとつで、京の町に売る物を並べ立てた歌詞を持つ。地唄「まんざい」にその面影がある。「京の町」または「やしょめ」と称しているが 、「やしょめ」は優しい女、「八瀬の女」などと解されている。この作では、後者の説によっている。                 

                                                


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車人形の特徴と生い立ち [解説]

車人形とは、人形遣いが、ろくろ車と呼ぶ前に2個・後ろに1個の車輪がついた箱型の車に腰をかけて、人形芝居を演じるものです。 文楽は、首(かしら)と右手を動かす主(おも)遣い・左手の左遣い・足を動かす足遣いの三人で一体の人形を遣います。車人形は、首を左手で持ち、人形の右手は右手で動かします。人形の左手には「弓手(ゆんで)」といって肘の部分に鯨のヒゲがバネとして仕込んであり、遣い手の右手にのびた糸と、首を持った左手の親指で操ります。足は人形の踵についている「かかり」という突起を遣い手が自分の足の指ではさんで動かします。人形の足が直接舞台を踏み、自由自在に舞台を歩き回れるところに最大の特徴があります。

江戸時代の末期に、北多摩郡大神村(現在の昭島市)の造り酒屋の職人・山岸柳吉(初代西川古柳1825年生まれ)が、大阪の人形浄瑠璃を学び、これに新しい工夫を加え、三人遣いを一人遣いに改良したものです。それが、大変な人気を呼んで、東京近郊を中心に広まり、明治の頃には、十近い一座があったといわれています。二代目西川古柳が東京都八王子市に一座を構えたことから、八王子車人形と称されて伝承されてきました。車人形は、かつては説教浄瑠璃と結びついて、農民芸能としてもてはやされましたが、その後、義太夫の進出に押され、説教節は廃れ、車人形もその衰退を共にしました。労音では、この優れた伝統芸能を守るため、1965年に三代目西川古柳師を講師に招いて車人形教室を開設、遣い手の養成に取り組み、あわせて作品の改訂・作曲に力を注いできました。1991年「労音・車人形の会」と改称、より幅広い活動へと展望しています。 


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新曲さんしょう太夫 鳥追い歌の段・解説 [解説]

説教節は江戸時代のはじめ頃に、操り人形芝居と結びついて人気を博し、さんしょう太夫は、中でも最も人気の高い演目でした。このさんしょう太夫を、新たに掘り起こすにあたり、できるだけ伝統をこわさないよう努力し、今の誰にでもわかる言葉に直すことに主眼がおかれています。同時に、主人公の「つしおお」は、最後まで奴隷として扱い、自らの力で勝利する形に創作されています。誰にでもわかる言葉により、ストレートに伝わる臨場感、母と子の対面の場面は、涙を誘います。三味線、箏、十七弦、笛などの生演奏で、もちろん語りも生語り。舞台を自由に動きまわる車人形と共にお楽しみ下さい。    ( 上演時間 約50分) 

 


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